経営顧問先の取引先様に、「食」に関する業をされている会社さんがあります。店舗を構え、美味しい食事を提供したり、セントラルキッチンで冷凍食品を製造していたり、多岐にわたり、食の事業を展開しております。その会社さんと度々、食について議論を重ねます。そのことがとても楽しく、私の日常にも良い影響を与えていただき、食の向き合い方に変化が生じたりしております。
どのような変化かといいますと、美味しいものやカラダにいいものをいただくということもさること、食事の際のお箸や器に興味を持ち始めております。お箸は食べ物を自身の口に運んでくれるもの、器はお料理した食べ物をより美味しくいただくための、盛り付け場みたいなもの。今まで食事用具に無頓着でしたが、食事が愉しくなるようなお箸や器といった用具に熱をあげるしだいでございます。
私たちが食べている「食べ物」は、その前はほとんどが「生き物」です。動物や魚たちはじめ、果物、植物もすべて生き物でございます。私たちが食すときに食べ物と言うだけです。
当たり前のように食するのですが、もとはそれぞれに命が宿っていたのです。その命を私たちは頂戴しているのです。
その命をいただくことへ感謝の気持ちが、私の場合、少し「当たりまえ」のように、流されているような気がしているのです。食べる前に「いただきます」とは言うものの、ただ言葉だけを発しているのではないか。また、食べ終わったら「美味しかった」といった、ただの感想で終わってしまっているのではないか。日常を振り返り、なんとなく食事への感謝の気持ちが「当たり前」に流されて、薄らいでいるのではないかと思ったりしています。
いろいろ理由をつけて食事の在り方が雑になる時、後で後ろめたい気分になります。そんな時、食事という「命を食す、ありがたい時間」に念を入れるようにできないものか。そんなことを考えて、先ず行き着いたところが食事用具でございます。自分のお気に入りのお箸や器を使用することで、食事への感謝の気持ちが違ってくるのではないかと思ったのです。
何気なく当たり前にいつものお箸を箸立てからとり、食事を始めるのではなく、自分がこだわって新調したお箸で食べ物を口に運ぶのです。自分のお箸に「感謝箸」という名前をつけてみようかなと。「感謝箸」は食事に無礼であった自分の食事との向き合い方を変えてくれるような気がしております。それは、食を大切に、すなわち命を大切にいただくという自分の中の食文化の改革かなと。
先日、とても美味しく、雰囲気のいい焼肉酒場でほろ酔い時間を過ごしました。いつものようにこのブログで美味しさを表現しようと思ったのですが、「お肉をいただく」ほど、「命をいただく」という言葉と重なってしまうものはないと思いました。
いただく前は「いただきます」、食べ終わったら「美味しくいただきました。ありがとうござました。」と感謝の気持ちを言葉に出す。そのような礼儀を忘れてはいけないと、美味しさを味わいながら、嚙みしめたしだいであります。
大好きな酒場巡りを続けるためにも、外食でも「感謝箸」を使い、より食事に感謝の気持ちを持ちながら愉しみたいとそう思うしだいであります。
大型の台風が接近しております。どうか被害がでないよう祈るばかりです。また9月1日より、新たな気持ちで頑張ってまいりましょう。
コメント