「親孝行とはプレイである」そう提唱するのは、親孝行を探求し、親孝行の新しいスタイルを確立した、親孝行学の権威、じゅんじゅんこと、みうらじゅん先生である。私はみうらじゅん先生を敬愛している。
これから書く内容も、じゅんじゅん先生から影響を受けた、私なりの「親孝行プレイである」
その前に、親孝行プレイについて、先生の研究書籍から解説を抜粋しよう。
先ず、プレイについて。プレイ。それはたとえば、「露出プレイ」とか「聖水プレイ」とか「放置プレイ」といった時に使われる意味での「プレイ」である。 (繰り返すがじゅん先生の書籍に書かれている。)
親孝行の関係性について。「親なのに」「子なのに」「親子なのに」誰よりもコミュニケーションがうまく取れない命題がある。これを「親だからこそ」「子だからこそ」「親子だからこそ」誰よりも気を遣い、誰よりもサービス精神を持ち、誰よりも接待感覚を忘れてはならない。親を喜ばせる行為は、「心の問題」ではなく、実際どう行動するか、つまり「プレイ」の一環である。
私はこの研究結果から発表された文献をもとに、実際に母親に親孝行プレイを実施した。
じゅん先生曰く、「母親はいつまでも息子の恋人である」とのことだ。
80歳を迎える母親を誘って、大阪花の文化園という、名前のごとくの施設に紫陽花を見にでかけた。なかなか、その日を迎えるまでが大変だ。「行く」という返事の後には、「やっぱりやめる」、「お父さんどうしよう、お父さん行かないなら私も行かない」「せっかくやから行くわ」・・・・当日は当日で「天気悪いからやめとく」「あー晴れてきた。行くわ。」
うーん、しかし、コロコロ気が変わる恋人である。私は、じゅん先生の仰せの通り、誰よりも接待感覚を忘れず、サービス精神を持って、暖かい言葉で恋人を励まし、当日を迎えた。
目的地についても、まあまあ気の触る発言が多い。やれ、「思ったような感じじゃない。」「私の好きな花がない。」「なんかつまらんなあ。」挙句に「しんどなったわ。」「帰りたいわ。」と続く。
ほんま切れそうになる。しかし、この気の使わない発言が親子ならではである。これが親孝行は挫折がつきものとなる原因だ。これが他人であれば、彼女の発言も違ってくるのだ。故にここは「プレイ」が必要となる。私は彼女にプレイしていると、再度、じゅん先生の言葉を思い出し、精一杯サービス精神を持って、急な階段で彼女の手をとろうとする。そのとたん発っせられた言葉は「うわ、キモイ」である。こちらの言葉じゃー!
まあ、親子というのは、ほんと「親なのに」「子なのに」となる。
けれども、親孝行をプレイと割り切って、たまにこうやって、なんやかんや言われながらも、絶対に切れずに接待をプレイしてみる。
そうすると、気持ちは伝わるものだ。親子だから。
彼女からLINEが来た。「また、違う花が咲くとき、連れて行って」と。
限りある時間の中で、親子だから、分かり合えるだろう・・・とか、親子だから、まあいいや。という感覚ではなく、取引先の社長よりも、優先順位をあげて全力で、接待プレイをしていきたいと思う。
親子だからこそ。
じゅん先生、気づきをありがとう。
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