草いきれ-44

日常

熱れという言葉があります。人混みの中で感じる熱気の「人いきれ」やこの時期によくある生い茂った草むらが日に照らされて、むせかえるような熱気を指す「草いきれ」などを意味する時に使われます。ある意味すごい生命力を感じます。

駅に向かう、いつもの道の歩道を通ると「草いきれ」を感じていました。いつのほどか背が高く育ち、その姿は青々と輝き、200メートルほどの歩道沿いに堂々と存在感を示しています。その草むらの中、青とは対照に白の野花があちらこちらに咲いています。それをアイフォンに収めたりします。撮る時間帯、天候の違いにより、花の開き方に違いがあります。太陽の光が煌々とした朝方はしっかり元気に開き、雨の日はしょぼくれています。その違いに楽しさをお覚え、撮ることに夢中になったりしています。

また、季節によって歩道の風景が違います。春は桜並木に見とれ、初夏は野花と戯れ、真夏はこれでもかと草いきれとなります。夏の終わりの夕方からは虫の声が聞こえ出し、秋は少量の赤い彼岸花が咲き心を踊らされます。こんな200メートルの草むらでも季節の変わりをよく感じることができます。

そんな歩道の草むらが…。

僕にとってはただの歩道ではなく、約3分間の自然を感じる時間で、行きは元気になり、帰りは癒しを感じることのできる歩道でした。

しかし、昨日、草がすべて刈られていた。当然、野花もなくなり、虫の声も聴けなくなった。これもひとつの季節の移り変わりと捉えるか。とぼそっと独り言。

そう、草いきれは相当な暑さを助長する姿でもあるのは事実だ。不快に感じることもあるだろう。誰もがただの雑草の感覚だ。しかしながら雑草を侮ることなかれである。ある意味すごい生命力なのだ。一瞬、やられたかのうように見える彼らは再起の機会をうかがっているのだ。悪者と例えるのは恐縮だが、まるで仮面ライダーのショッカーだ。実は生きている。なのだ。

草木の生命力はすさまじい。コンクリートの極小の隙間からでもその生命を維持する。まさに這い上がってくる。驚くほどの強さである。時にコンクリートも割ってしまう這い上がり様だ。そして、踏まれてもめげない。何度も踏まれれば、方向を変えてしなやかに成長していく。まるで、真っ向勝負を避け、受け流す生き方だ。俗に言う、雑草魂だ。

側に草むらがなくなった歩道の姿はバランスが悪い。なんだか殺風景だ。当分、バランスの悪い歩道の姿を歩くことになるが、今に見ておれと言わんばかりに草や野花が生えてくるんだ。1ヶ月もすればまたその草の中で秋を演出する虫たちが騒ぎ始めるんだ。と思いながらの今日の歩道を歩いた。

この雑草魂は人が人生の目標や何かに取り組んでいる努力に例えることができます。踏まれるという行為を逆境と例えると、何度、逆境と遭遇しても這い上がっていく。と言い換えることができます。とは言え、なかなか難しいのも事実ですけどね~。ただ、草木はあきらめないんですね。何があっても。なんか、そんなことも刈られた雑草から学ぶのもありかなって思ったりします。

この暑さ、草いきれがなくなっても、街は人いきれです。体調に気を付けましょう。

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