「泥臭くやる」ことが人の心を動かすのかもしれない。字のごとく、土の匂いが付くほど自分の足を使うことだ。決して器用とは言えないやり方で。それは今風じゃないけれど、きっと神さまは見ているのだ。
「泥臭くやる」という言葉から、イメージできる言葉は、「地道に努力する」「手を抜かない」「一歩一歩進む」などが浮かぶ。あるいは端的に「古いやり方」ともイメージできる。何かを達成するための手法論で使うことが多い。
例に出してみると、営業担当がいる業種で泥臭い営業活動を想定してみる。「決まったルーティンで会社訪問をし、挨拶周りをしている」このやり方は自分の足と時間を使った、非常に古臭く効率の悪いやり方だ。すぐに成果が期待されないが、拘って継続している様子がうかがえる。
反対に、「泥臭くないやり方」をこの例をもとにイメージしてみる。営業活動は見込み客の発生時のみで、それまではSNSやインターネット広告、自社ホームページなどのデジタルツールで広告活動をしている。このやり方は非常に今風で洗練されていてスマートなやり方と言える。泥臭くないやり方とは、自分の足や時間を最低限の活用とし、効率を優先する手法と言える。
ざっくりとした言葉に言い換えると、「泥臭くやる」は自分の足で地道に続けていくこと。所謂、「面倒くさい」ことをすることだ。一方、「泥臭くないやり方」は面倒臭さを嫌い、コスパやタイパを重視し自分の足ではなく他のツールを駆使するやり方である。
目標に対する結果は、前者は「即効性は期待できないが、じわじわと成果が表れ、持続的な目標達成や成功というゴールに向かうことができる。後者は突発的に成果が出ることがあるかもしれないが、絶対的でもなく、あったとしても一過性に終わる可能性が高い。
また、両者とも自身の思い込みで「仕事している感」に陥る危険性を秘めている。結果を求める手法はおおむねそうなる。大事なことは、どちらにしてもなぜこのやり方を選択しているのかを説明できるかどうかである。
さて、冒頭の泥臭くやることは人の心を動かすのかもしれない。という仮説についてである。見えないところで頑張る努力が垣間見えた時、人は心を動かされるのではないだろうか。その見えないところにおける努力は「神のみぞ知る」なのである。人知れず地道にお客様に手紙を書いているとか、訪問活動のあとお礼状を書くとか。そんな裏方的な地道な活動がお客様の心を動かすことになる。そして、その活動を決して人に自慢せず自分と神様しかしらないこととする。故に泥臭いやり方は人の心を動かすのだと思う。
稲盛和夫先生は、「神さまが応援したくなるほど努力をせよ」っとエールともとれる名言を残されている。たぶん、それは、見えないところで歯を食いしばって地道にやりなさい」ということだろう。そう、「泥臭くやりなさい」っと言っているのだと思う。
またサントリーの鳥居社長の有名な「やってみなはれ、やらなわからしまへんで」という言葉がある。意味は字のごとくで、新たな挑戦に対する言葉と解釈できるが、言葉の前に「泥臭く」がつくのではないかなと思っている。「泥臭く、やってみなはれ」と。どんなに技術が進化しても、どんなに効率的な手法があっても、基本、地道な努力を怠らずやることが、「やってみなはれ」なのかもしれない。そう考えると鳥居社長もきっと自分の足と時間を使って、あえて面倒くさいやり方を選んだのだと思う。だから「やってみなはれ」と言えるんだ。
泥臭いやり方は人の心を動かし、尚且つ、神様の心も動かすんだと思う。神様に応援してもらいたいから僕は泥臭いやり方としようかなと思う。取引先で泥臭さを感じた日でした。
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