取引先の社長様より、メロンをプレゼントしていただきました。
「いつももらってばかりで、ありがとう。」と。
人から何かをプレゼントして頂くことは、非常にありがたいなと心に残ります。時間を割いて、それを準備して頂ける行為にとても有難さを感じます。今回は素敵なお言葉まで頂いて、恐縮でございます。
日本にはお中元、お歳暮と感謝を伝える風習があります。この風習の在り方は時代の変化とともに形を変えていくかもしれません。しかしながら、感謝の気持ちを伝えるという本質的な根っこの部分は変わらないと信じています。気持ちを伝える行為なので、形式にとらわれず、金額の在り方にも見栄を張らず、ただただ感謝を伝えるという行為として、相手に敬意を払い、プレゼントをしたらいいと私は思います。プレゼントプレイです笑
水野敬也さんの小説が好きです。中でも「夢をかなえるゾウ」シリーズは自身の仕事や生き方、悩みなどに照らし合わせて読めることができ、フェイバリットブックスです。
第二弾の「ガネーシャと貧乏神」に出てくる、貧乏神の金無幸子の発言が金言だらけで素晴らしすぎます。先ず、金無幸子・・・名前やばいですね。金は無い、幸せな子。どう解釈するか。金は無い、けど、幸せなのか。金は無い、だから、幸せなのか。ひょっとしたら、後者が人間の真理かもしれませんね。まあ、本の中では貧乏神の設定なのですが。
話はそれましたが、その金無幸子の金言をひとつ。「プレゼントして相手を喜ばせる経験をすれば、自分以外の誰かを喜ばせることは楽しい」と感じるようになる。
さすが、金は無くてとも幸せを見つけます。けれど、この行為って福を呼ぶ行為なので貧乏神的にはNGなんですよね。そこが水野さんのすごいところですね。主人公は人を喜ばせることの楽しさを貧乏神から教わったのに、福の反対の貧乏神は主人公に寄り添うことができなくなる。なんともトレードオフな世界。何かを選ぶとは何かを捨てることになる。この真理を描いているんですね。ビジネスの世界では選択と集中ですね。
またまた話がそれましたが、金無幸子さまの金言は、プレゼントという行為は自分も喜ぶことになる行為ですよ。っと、言っているんですね。相手の喜ぶ姿を見て、自分も嬉しくなる。という。
誰かにプレゼントをして、喜んでいる姿を見て喜んでいるのは、プレゼントをもらった相手ではなく、プレゼントという行為をした自分自身。相手にプレゼントしているはずが、そのまま自分へのプレゼントになっているというマジック。人に何かをプレゼントするって、ほんと自分も幸福感ですね。
プレゼントしていただいたメロンは、高知県の西島園芸団地のマスクメロンでした。会社と縁があるこのメロンを取り寄せ、私が持ち帰りやすいように二重の袋にいれ準備してくれていた。
喜ぶ私を見て、社長はもっと喜んでいるように見えた。
受けとる幸せより、与える幸せを知ってしまうと、楽しくて仕方ない。給与も与える側が楽しい。といつかそんなことを私に話してくれたことがあった。
今回のプレゼントで非常に気づきがあった。小さな与える喜びの数は、いつしか大きな幸せになるのかもしれない。なんて、本気で思った。
1個のメロンのプレゼントがご先祖さまにもいきわたった。すごいです。プレゼントプレイ。
ありがとうございました。
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