お盆-54

日常

朝方、家庭菜園をしている畑に水やり出向くと、ツクツクボウシが鳴いていました。例年、お盆を過ぎると鳴き声が聞こえだします。まさしく今日はお盆。自然ってすごいですね。

多くの地域では本日からお盆期間がはじまります。ご先祖様が自宅に帰ってきてくれます。私は子供のころ母の故郷の宮崎で毎年、お盆を過ごしていました。母の実家では夕暮れから日が落ちる頃に迎え火を焚いてご先祖様をお迎えしていました。子どもながらに、なぜ火を焚くのかという質問をしたことを覚えています。

ご先祖様がいてくれたので、今の私がいる。なんてことは子どもの頃は実感できず、ただ手を合わすだけでした。あれから40年が過ぎた今、ご先祖様がいてくれたので、今の私がいる。ということを実感しています。本当に感謝です。

故人を思ったり、顔の知らないご先祖様のことを考えたりすることに、ゆっくり向き合える時間がお盆なかのかなと思います。いろいろな思い出がよみがえってきて、「ありがとう」って心の中で唱えてみたり。顔の知らないご先祖様には、何をしていた人なんだろう。どんな家に住んでいたんだろう。お金持ちだっただろうか笑 そんなことに思いを馳せてみたり。改めて、お盆を嚙み締めることができる年齢になったなと思います。。

昔のような形式を重んじた、お盆の過ごし方も大事だと思います。形があるが故に感謝の時間を設けることができます。ただこの先のご先祖様との関わり方も、時代の流れで変化していくのは必定と考えるしだいであります。けれども供養という気持ちと行動は忘れたくないなと思っています。

故人を供養するとは、故人のためだけにあるのではなく、生きている我々の供養する側にも大きな意味があると感じます。故人の冥福を祈るとともに、自然とこみ上げてくる「ありがとう」の気持ちを嚙み締める。この時間を持つことが故人とご先祖様とのつながりの時間であり、我々が生きていくための勇気をもらう時間であると思います。感謝という言葉を実感する。これが私流のお盆の過ごし方かなと。今のところ。

以前、友人が住職をするお寺で、お盆の法要のお手伝いをしていました。法要が終わり、お線香と仏花・お供え物でいっぱいになった供養塔の掃除をしていました。誰もいなくなった境内に一人の中年男性がこられ、掃除中の私に申し訳なさそうにワンカップをお供えし、手を合わされていました。その姿になんとも言えない真の心を感じました。法要に参加できない事情があったのでしょう。私はお坊さんの供養の読経も必要かと思いますが、人知れず、夕刻の供養塔にワンカップを供えることも供養だと思う。感謝の心だったのだろう

2回目のお盆だな。大好きだったウイスキーで乾杯!感謝。

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